「彫塑的な考え方」

 

なぜ、彫塑をするのかと言うことに対して、それは「人間をさまざまな面から見ることができるようにするためである。」と言うようなことが、治療教育の分野で書かれていたと思う(引越しで本をしまいこんでしまっているので引用なしですみません。)

この考え方がずっと頭から離れずにいる。

先日留別会(送別会)で、校長先生が、そして同僚が、さまざまにその転退職する先生方の人となりを語った。

自分について話をされることを聞きながら、ああ、自分のその面に光を当ててくれているのだなあと感じたと同時に、光を当てて欲しい部分が他にもあるのだというちょっと欲張りな気持ちも湧いていた。それと同時に、イメージとしては自分と言う全体があり、それは平坦な形をしているのではなく、それこそ彫塑的に立体的に存在しており、それを今、この面から見ているのだなあと言う感じである。でも、裏側に回ってみると、別の面が見えるし、違った面を見ている人には、それが私だと感じるだろうと。だから、誰が自分を見ても、人によって見える面はさまざまであると言うことはとてもすっきりと納得ができる。

同様に、自分が他の人を見た時にも、きっと違う面から見たり、違う出会いがあったり、違う状況立場から見ると、もっと違う人に見えるのだろうなあ。という意識がすごくある。

あの先生は、○○だ。というように決め付けていたことが、留別会で他の人からの紹介を聞いて、そんな面もあるのだ。と驚くこともある。

頑張って、意識的に創造している部分には、光を与えてあげたい。頑張っているのに認められないと、自信を失っていき、そこに価値を見出せなくなってしまうこともある。人の評価を気にしない。と言う人は、そのようなことを危惧して、たとえ人から光を今は与えられなくとも、意志の力で創造のエネルギーを注いでいる人。だが、なかなかそれで満足できる人は少ない。子どもならばなおさらである。

彫塑的というイメージとは少しずれるが、角度を変えて、ある面に生じた芽に光を与えることでその芽が伸びていく感じがある。

彫塑的に考えると、ある面を積極的に彫っていくことで新たな形を作り出す。新たな形を生じさせる。

人格形成を考えると自己教育的に考える時、それは彫塑的に彫って行く漢字なのかもしれない。そして、子ども達を見るとき、そこに大人は光を与えることが必要なのではないかと感じる。

暗がりの中では、掘り出そうとしている形を見ることができないだろう。

「子ども達の良い面を見つける。」と言った時に、そんなことをイメージしたいと思った。