「別の視点から見る。」

西田哲学に対して、ちょっと拒絶感を感じてしまった私。

今月の修行「肯定的態」が試される。

肯定的に見よう見ようと思っているはずなのに、自分の力で肯定的に見る事ができずにいる。素直に、校長に思いをぶつけてみる。と言うか、ざっくばらんに話をする。校長も難しさや難解さについては共感をするが、視点が違った。

「西田幾多郎の生い立ちだとか、そういう点から見てみるというのも大事なんじゃないか。」

と。もっと現代語に訳されているものもあり、もっと分かりやすい事も大事だと思うが、分かりやすくすることで伝わらないニュアンスもあるような気がするとも言っていた。

その点については同感である。

内容に関して、一つ一つを取り上げて細かく検証していくというようなやり方をしていっても駄目なのかもしれないし、分からないだろうし、そんな事をしている余裕はないと言う。

言葉一つ一つをあまりにどうこう言っても仕方がないが、自分はそこにとらわれすぎていたようにも思う。また、それは比較的自分の傾向でもある。

細かいところにとらわれてしまって先に進めなくなってしまったり、全体が見えなかったりするのだ。

校長から、新しい視点をいただいたことで、少し、肯定的な気分が自分の中に生まれた。まだ、実際共感できるかどうかは分からないが、そう言った判断抜きに何を掴む事ができるのか、難解なテキストの背景にある、人間の生き方。それは、現象の裏側にある高次の意図を思わせる。

また、ちょっと別の視点で西田幾多郎とその哲学を見る事ができるのかもしれない。

のみならず、肯定的な態度、自分自身で作り出す事が出来ない時に、他人の力を借りる事でも可能であり、そのような経験の蓄積が、自然と自分自身の力で肯定的な態度になる素地となるのかもしれないと思った。

同じように、子ども達の道徳的態度も、はじめから子ども自身の中から自然に生じるだろうと期待することなく、物事に対する。判断や感じ方を一旦表面に出させた上で、ある、別の価値観を投げかけてみると言う事が大事なのではないかと考える。