西岡常一さんの対談集を読みました。大変すばらしい本でした。
あたりまえのことですが、職人というかは、道具、習熟、技術にこだわります。というか、道具や習熟や技術が自分たちの命だということをよく知っています。
あまり知られていませんが、太子講という職人の間のお祭りがあります。私の会社の近くの「房総の村」にも関連の展示があるようです。
旧暦の1月といったら今頃でしょう。
職人たちの間では、聖徳太子は日本のありとあらゆる技術の始祖だと信じられています。私の父祖もお太子さんを大事にしてきたのだそうです。なんでもフナをおけにいれて、太子講のときにはお祝いをしたとか。実際には、大工にとってなくてはならない曲尺は中国から取り入れられたということで、それが聖徳太子の時代より前だったかもしれないのですが、意外なほど全国に広がっている職人のお祭りです。
ですから、西岡常一さんが対談集の中で「お太子さん(おたいつさん)」についてなんども口にのぼしているのを読んでとてもうれしくなりました。ああ、やはり大工という仕事にとって技術の始祖の象徴である聖徳太子を大事にしていらっしゃるのだなぁ、と。
この西岡常一さんをすごいなと感じるのは、聖徳太子ころの法隆寺の棟梁たちとあたりまえに「会話」していらっしゃるところです。法隆寺の解体修繕をとおして、古代の棟梁たちの仕事ぶりを実に丹念においかけられ、身体で感じられたのでしょう。ヤリガンナを現代に復活させるときの話は、当時の大工の息遣いまで感じてきた西岡棟梁ならではの気迫を感じさせられました。
埃まみれの書棚から29
ヒノキや台檜(台湾ヒノキ)について語るときには木とも会話しているようにしか思えません。建築の構造などをちょっとでも勉強すると部材の固さよりもねばり強さをあらわす「ヤング係数」という指標が大事だということはよくわかります。材木のヤング係数を計測するのはなかなか大掛かりな装置が必要になるのですが、木を知りぬいた西岡棟梁には、「私はここまでねばりづよいですよ、こう切って欲しいんです」と木の方から語りかけているとしか思えません。
「目をふさいで触っても、これは尾州(旧尾張藩、長野、岐阜)や吉野(奈良県南部と和歌山、三重の山岳部)やということぐらいはわかります、ヒノキでも。」
「吉野のヒノキを削って触りましたらね、なんちゅうのかな、こつっとした感じでちょうっと冷たい。尾州のヒノキはいわば真綿を触った感じ。織物でいうたら吉野は麻の感じ。尾州は絹物の触り。」
私もおかげさまで四代続く、材木屋、建築屋の末なので想像するところがあるのですが、大工、職人として三代を過ぎるというのはなみたいていのことではありません。西岡棟梁のお仕事の話でも、法隆寺の金堂の火事以降の修繕などの華やかに語られている部分だけのなまやさしいものではないことを感じました。その生き方というのは、聖徳太子の名前は伝わっても、名前は伝わらない古代の大工たちと同じです。だからこそ確信を持って西岡棟梁はせいいっぱいの仕事ができたのでしょう。
「よろしいですな、現在は鉄材というものに頼りすぎてますし、いまの建築学者の考え方や構造力学というものは、今日の力ばっかりを考えて、五十年むこう、百年むこうは考えてくれませんのや。鉄材を入れんと許可せんということでね。私らのいうているのは最小限千年というとおを考えてやっていますでしょう。だいたいいまの建築基準法というやつは、聞いてみたら二十五年くらいやそうやから。それに合わせての基準ですわな。そんなもんと千年とは雲泥の差がありますわなあ。まあ、鉄材を使えば二十五年ぐらいは大丈夫ですわ。」
現在の建築屋の社長として実に耳の痛い話です。この本の中にも触れられていますが、現代の生産システムの中では木の選び方、切り出し方、そして電気式の道具を使うというところで、西岡棟梁の目指した仕事を木造で実現するのは至難のわざです。現代のコストの制約、期間の制約から言ったら不可能といってもいいかもしれません。方法は違うかもしれませんが、西岡棟梁の目指した「後世に誇れる仕事」を私もひとつでも残して生きたいと願っています。
代々といっても祖父から仕事を教わったという、ひとごととは思えない話など、西岡棟梁の言葉を引用しはじめるととまらなくなりそうなのですが、最後にひとつだけ私自身に言い聞かせる言葉として引用して今回のメルマガを収めさせていただきます。薬師寺西塔の心柱の用材の話です。
「わりあいに節のあるかたい木です。というのは、節のないスカーッとしたいい木はわりあいに弱くて、いのちが短い。キューッとねじくれるような木が強い、そしていのちも長いというんで、塔の外側はくだけてもかまわん、心柱だけはのこるようにというので、わりあいに強い木を選んで柱にしときました。」


