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「韓国通信 第20号 2008年5月10日」

生存権問題で動揺する韓・中 アメリカ牛肉輸入問題で韓国社会が揺れ動いている。政府は国民に談話を発表しアメリカ牛肉の安全性を強調しているが、国民の間にはインターネットなどを通じて、「狂牛病怪談」が広まりつつある。数万人の市民がキャンドルデモに参加し、一方では李明博大統領に対する弾劾署名運動まで展開しているので、深刻な状況が続いているわけだ。

CBS世論調査機関の発表(5月9日)によると、李大統領支持率は25.4%、そしてハンナラ党支持率は26.3%(統合民主党25.2%)。新政府が登場して3ヶ月も経っていないのに、これほど支持率が下がったのは韓国歴史上初めてのことである。 

何より支持率下落の原因にはそのアメリカ牛肉輸入問題がある。多くの市民は民生のため保守政党に心を傾けたが、新政権は国民主権を守らず、狂牛病に露出されたアメリカ産牛肉を国内に全面的に開放することに決めてしまったからである。それで新政府の屈辱的協商に国民はうっぷんを爆発しているのだ。 

南北問題はどうか。北朝鮮は8日朝鮮中央通信を通じ、「李明博政府と南側の軍部が軍事的緊張を高めている」と述べ、「軍事的緊張が激化すると衝突が起こり、それはまた第3の西海交、第2の6·25戦争(韓国戦争)がる」というような無謀な主張をしたという。どうして繁を追求していた南北係がこれほど化してしまったのだろう。その一次的な責任は李政府にあるに違いない。  

実はアメリカ牛肉の国内輸入は今回が初めてはない。市場開放以来、アメリカ牛肉に狂牛病菌と骨の切れなどが見つかり、輸入中断と再開を繰り返してきた。しかし、先月にアメリカを訪問した李大統領は輸入条件を改正し協商を妥結したのである。それなら国民の主権を考えるような、より合理的な協商をしてほしかった。いったい誰のための政府なのか。どうして国民にアメリカとの協商内容をそのまま伝えないのか。 

生後30ヶ月過ぎの牛から生産された牛肉も、国内に入るという。しかも、韓国人は昔から牛の角と足指を除いては大体食べてきたが、韓国政府はアメリカ牛のほとんどの部位を国内に輸入することにアメリカと合意したそうだ。狂牛病の危性に民が被害を受ける可能性高まっている。ヨロッパや日本ではその点を念頭におき、アメリカ牛肉の年と部位を制限しているのに、全面的な開放をアメリカに約束した李政府の本音がめない。  

さらに、李政府とハンナラ党は、アメリカ牛肉の輸入反を叫ぶ平和的示威を、ひたすら反米や反李の意として受け入れる立場を表明しているので、とてもらちが明かない。健康と主を守護するため、高く叫ぶ市民のスロガンと民心がどのようなものであるかを、李政府ははやく把握するべきである。  

なぜ多くの中生や高校生さえ手にキャンドルを持って、場に集まってくるか、支持率が下がっている理由は何なのか、深く診する必要があるのだ。  

人間の生存権と尊性ほど重要なものはない。力の中心にいる人は、まず民に家のための責任を果たすことを強要する以前に、常に民の心をむことにむべきではないか。  

漱石の言葉を思い起こせば、力者には「事ない事を恰も家のにする如くに装ふ」(「私の個人主義」)処世術があるように見える。ところで、は自分の力や政治的目的のため、民に「家」を強調する場合があるので問題だ。人間の多性に重点をおかず、すべてを一化しようとする理念から善と抑の政治が生まれると思う。  

漱石は「豆腐屋が豆腐をってあるくのは、決して家のってくのではない、根本的の主意は自分の衣食の料を得るである」(「個人主義」)と述べた。民は決して家のために生活をむのではなく、個人の生存と繁のために日を暮していると言った方が適切かもしれない。その意味から見て、今回のアメリカ牛肉輸入問題は民の生存権と直結した問題と言ってよかろう。

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チベット問題も、生存権をめぐってのたたかいであると思う。最初わたしはこの問題をチベットの立場に偏って眺めていた。チベットの僧侶らと市民を鎮圧する中国軍の暴力、そしてチベット人犠牲者の血だらけの姿に同情の視線を送らないではいられなかったからだ。 

とはいえ、中国に編入され半世紀以上も経って、中国の自治区になっているチベットの独立を支持する視点を持っていたわけではない。チベットの指導者ダライ・ラマ自身がだれよりチベットの状況をよく把握しているだろう。が、彼は決して独立を求めているのではなく、その意見を尊重する立場に立ちたかったのである。 

なおチベットの場合は朝鮮(植民地時代)とはまったく異なる史と背景を持っているといえよう。チベットは中の少民族にする。いわば中は多くの少民族で構成されていて、中国政府から見れば今更チベットを立させるようなことは考えられないだろう。むしろそのようになった場合、その余波は中全域にまり、中の存立を脅かすことになるかもしれない。  

はそのことをもっとも恐れていると思う。それで予めその可能性を遮するため、武力鎮圧で抑えようとしたに違いない。一民族の家ではない中で各少民族がすべて立を目指すことになればどうなるか。現的な妥協案が必要な理由はここにあるだろう。  

それに色々な情報を通じて、チベット問題はそれほど簡単ではないということを実感した。アメリカの政治的意図、アメリカとダライラマとの関係など、より厳密に検討しなければならない要素がだいぶあったからである。たとえば次のようなことが気になった。 

第1、ダライラマはチベット亡命政府の指導者で、対話の重要性を説破するなど問題解決に臨んでいるのだが、その指導力に限界が見られる点だ。その原因は話を通じて「高度の自治」を追求してきたダライラマの非暴力路線をチベット年らが支持しないところにある。チベットの青年らは完全な独立だけを望んでいる。 

第2、最近中国政府はダライラマと対話をしようとするようだが、今まではダライラマを信用していなかった点だ。中国は、ダライラマが非暴力路線を堅持しながらも、他方チベットでの暴動を操っていると見ていた。それで対話の糸口が見つからず、中国とチベット亡命政府はお互いに非難を繰り返してきたのだ。 

第3、アメリカがダライラマに名誉学博士学位を授与することやブッシュ大統領の特使がダライラマに会っている事実の背後には、思ったより深い政治的意味がある可能性だ。それは中国に対するアメリカとチベット亡命政府との同盟戦略的関係を思わせるところがあるように見られる。 

第4、チベットの中国支配の時点が問い直されなければならない点だ。その時点は中国革命からだと見る意見がある反面、元・清、あるいはLamaismの時代と看做し、その歴史は長いと見る見方がある。中国は政治と宗教が一致した昔のチベットの封建社会を立て直し、近代化に拍車を掛けチベットを発展させたという論理があるのはそのような背景に起因するだろう。 

だから、チベット問題を独立=善、その他=悪のような二分法に区分することに疑問を抱かざるをえない。それに明らかになってはいないが、国際情報機関の関与説などを念頭におくと、決して問題は単純ではないらしい。 

しかし、中国の少数民族に対する差別的政策や、今度の武力鎮圧が決して容認されるものではなかろう。それはヨーロッパにオリンピック開幕式不参の世論を喚起しているだけではなく、各国のマスコミも取り上げ厳しく批判している。そのうえ、ここで再び言及したくはないが、今度のチベット問題がこれほど波紋を呼び起こした原因は、中国の過剰鎮圧にあったことを否定することができないだろう。 

そして、聖火リレのとき、組織的に動員された中人留学生らによる過度のナショナリズムと過激な暴力行に、世界の人々は憂慮にたえない視線で見ていたことを指摘しておきたい。 

中国とチベットのことをより緻密に考察するべきだが、知っている範囲内で私見を述べてみた。 5月8日、オリンピック聖火はエベレスト山の頂上に上がったという。中国は来月、オリンピック聖火のチベット到着の時期にあわせ、外国人観光客にチベットを開放するらしいが、どうなるだろう。

紛糾には対話に勝るものはないだろう。中国当局とダライラマ側の対話で、一日もはやくチベットの問題が平和的に解決されることを期待する。

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ゴールデンウィークに江華島に行ってきた。韓国の5大島(済州島、巨済島、珍島、南海島、江華島)の一つである江華。一時期は高麗の都でもあったが、昔から首都ソウルを守備する関門と言われ、韓国の開国とともに苦難の歴史を一緒にしてきたところである。

 

「江華島条約」という歴史的事件もある。日本には「江華島事件」として知られているが、ウィキペディアには次のように書いてある。

 

江華島事件(こうかとうじけん、カンファドじけん)は、1875年(明治8年)9月20日朝鮮江華島付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である。日本側の軍艦の名を取って雲揚事件とも呼ばれる。

日朝修好規締結の契機となった。「日朝修好規」は高宗(1876年)のとき、朝鮮と日本帝国が締結した条約。この条約で日本が侵略の足場を築いたことを想起しながら「江華歴史館」を見学した。

最近漱石『門』の時代的背景を考えている。『門』に憂鬱な空気が漂っている理由は何か。漱石の内面的問題について触れたことがあるが、1909年〜1911年の社会的状況を念頭におくと、新たな問題が見えてくる。 

5月だから、いろいろなことが思い出される。しかし、何一つはっきり目に見えるものはない。私の現在は「無」なのか。 

日本の皆さん、よろしくお願いいたします。       

     発行者 金正 http://kjh.rakurakuhp.net/  

       

「韓通信 第1 2008年11

 松田解子考―花岡事件を軸に 

松田解子に花岡事件はどのようなものであったのか。第2次世界大末期、日本帝主義の強圧制連行によって、多くの中人が日本の山や労働現場で飢餓と重労働、あるいはその外の理由で死んでいった事件を松田はどう思っただろうか。その花岡事件は終後の1940年代末から新聞や誌などを通じて知られることになったが、それに接した松田の姿勢は真剣なものであった。 

松田は「花岡山の制連行の記」(注1)で花岡事件を知った時期を「一九四八年か四九年のこと」と述べている。そして次のように語った。 それはわたし自身、おなじ秋田県の山出身者であったせいかもしれないが、ともあれ前記の新聞で、中、日本に制連行され、花岡山に投入された中人俘虜が敗直前に暴動を起こして百人の者が虐殺され、その骨はいまも花岡の地に放置されていると知ったとき、これからではおそすぎるうらみはあるにしろ、これを徹底的に追求する義務をかんじるとともに、そこではきっとそれ以前に、日本人や朝鮮人労働者も時下ゆえの労働強化で牲になっているのではあるまいか、山地では平和時でさえ怪我や死人が絶えないのだからと、つよくそのことを思わせられたのである。(注2) 

何より松田には、自分の環境と背景を共有する象にする愛情が深く、そこから彼女の同情心も動していると見てよかろう。なぜ労働者はあのような貧困と苦に堪えなければならないのか。一体何のための労働であるのか。松田の疑問は、成長過程の中で山娘として注視してきた日常生活にする疑心である同時に、加害者側が被害者側を抑し、虐待することにしての抵抗であるともいえる。 

しかし、それが家にする限りない批判と、弱者にする配慮につながるので、注目に値するものがあると思う。戦争に執着した日本軍主義は軍需産業のため、膨大な労働力を必要とし、中人俘虜を花岡山まで制連行したのであり、日本軍と辣な資本階級により彼らは人と自由を奪い取られ、ありとあらゆる暴力とリンチで牲にされていった。  松田が花岡事件を「徹底的に追求する義務をかんじる」という根もここにあるに違いない。 

その事件を「徹底的に追求する」松田の義務感は、文筆活動と直接調査を通じて具体的に表現されている。作者は小『地底の人』と『骨』、ルポ「花岡事件おぼえがき」と「遺骨を送って」、そしてレポト「花岡山をたずねて」などで、花岡事件の相を究明するだけではなく、その事件の背景と日本帝主義の行を赤裸に告する。 

秋田県協和町荒川山出身の娘が、同じく秋田県花岡町(現大館市)花岡山で起きた人間虐待と労働者蜂起の事件を生しく描くこと、それは当時日本社会の独善と不正に立ち向かい正義と平和を実現しようとする、必死の努力であった。ルポやレポトには松田の現地探訪の記がそのまま載され、小には構の世界とはいえども、事件の端や背景、そして中労働者が立ち上がり、結局鹿島組と特高に捕まって虐殺されるまでの過程がリアルに描かれているのである。 

松田が初めて花岡調査に直接現地を訪れたのは1950年の秋。全連第14回臨時大のことであった。そのときの記憶を松田は、「私がはじめて花岡へたのは一九五年の九月の初め頃です。なぜ私の胸にそのことがグサッとささったのか。それは私が秋田県の荒川山生れで、それは三菱の山でしたが子供時分山では、夫がどんなにひどい目にっているかを見たり聞いたりしていたからです」と記している。(注3) 

自らヘルメットを被り、坑に入る松田の心境がどのようなものであったか十分納得できる。自分の体験と過去の記憶がありありと目の前に蘇ったのではないだろうか。山事務所でタイピストをしながら労働者の肉体的苦痛と悲惨な生活を目撃してきた松田にとって、坑内に入ることは自分の過去に戻ることであったからだろう。 

ところで、ここで心打たれるのは、事件を細かく証する松田の真剣な態度である。は松田は花岡山を訪れる前、全属鉱労働組合の大加し、花岡からの代表二人に聞いて、事件の全貌を確認をしている。つまり、「中人俘虜の問題が起こる前に、日本人や朝鮮人労働者には、何も事件が起こりませんでしたか。労働強化で事故が起きて人が怪我するとか死ぬとかという事故は」(注4)と質問し、「やっぱり起きたす。あのひとがた(中人俘虜)が、花岡さる二た月ばかり前に、七ツ館という坑で、日本人が十一人と朝鮮人が十一人ころされたす」(注5)という返事を聞くのである。 

松田は花岡事件に接し、中国人だけではなく、日本人や朝鮮人労働者が犠牲になった可能性を予想していたが、その予想は的中したわけである。松田はその代表二人を自分の家まで連れていき、彼らに七ツ館事件が起こるまでの経緯と背景を徹底的に聞き質した。花岡事件について書いて世に知らせ、また直接花岡鉱山を訪れたいと思うようになったのも、二人の話を聞き、刺激を受けたからである。 

それゆえ当然、坑内に入った松田の心はその22人に対する思いで一杯であった。松田は、「わたしは数秒、壁すれすれに立ちどまって、見えない暗黒のかなたによこたわる二十二人の白骨をかいま見、その人びとが血みどろの手に鉱石のカケラや折れ抗木の切れはし、あるいはタガネヤ掻叉をにぎってレールをたたき、助けをよぶ声をきく思いであった」(注6)と口述している。 

松田にとって、花岡事件を究明することは、日本帝国主義の、中国人俘虜に対する虐待と、飢餓に堪えなく蜂起した中国人俘虜を殺戮したその加害性を容赦なく告発する意図によるものであっただろう。しかし、松田はその発端になった七ツ館事件や朝鮮人と日本人犠牲者22人について具体的に言及することも忘れていなかったのだ。ここに事件の真相を巨視的に捉える松田の真面目が窺えるのである。   

松田は「わたしは、その現場に直接つながる堂屋敷坑三番坑道の最奥、すなわち壊滅(かいめつ)した七ツ館坑の遮へい壁まで行き着いて、坑内がいかに戦時的な人権無視の乱掘ゆえに危険化していたかを自らの目と足と体で確認した」(注7)と述べている。その「人権無視の乱掘」こそ花岡川の陥没を齎し、その陥没は水路変更工事のため中国人俘虜を花岡鉱山に呼び出し、結局花岡鉱山の惨劇に繋がっていることを想起すると、花岡事件の現場を訪れた松田の心境が十分読み取れる。 

松田に花岡事件は緻密に検証されなければならない対象で、生涯取り組むべき課題のようなものであっただろう。それは日本帝国主義に対する絶え間ないたたかいを身をもって実践することであり、戦争を仕掛けるすべての暴力を拒み、平和を実現することでもあったからだ。松田は日本が二度と戦争を繰り返さないよう切願しながら晩年まで花岡事件とたたかい続けた。時代を充実に生きた松田の生に共感し、その作家的使命感に満ちた生き方を評価する理由もここにある。 

(1)中村新太編集(『ドキュメント昭和五十年史 四』汐文社、1975年)

2)同注(1)

(3)「花岡と私」(『花岡事件四周年記念集の記』、1985年6月)

(4)同注(3)

(5)同注(3)

(6)同注(1)

(7)「里恋いの読書から」『秋田さきがけ』、1997年7月17日付

だいぶ通信が遅れた。

しかし、いつもそのことを意識はしていたような気がする。 

JANJAN」に「光州通信」を書き始めたが、それが理由だとは思わない。

どう怠惰を打破するか、それがいまの私の課題である。 

季節も変わりすっかり春めいてきた。日本の皆さん、よいお時間をお過ごしください。 

    行者 金正 http://kjh.rakurakuhp.net/ 

 

 

「韓通信 第1 2008年16日」 

ああ、南大門

 正月連休の終わり、全ての人は呆に取られた。日本人だけではなく、外光客が多く訪れるソウルの象、南大門。そのもっとも大事な文化遺跡が失したからである

 ある目者は南大門の2回に上がる一人の男性を目したと陳述したので、南大門の近くにあるソウルの周で野宿する反社的人間による犯罪であると思った。 

しかし、土地の補償問題に不を抱いていた人による放火だった。なぜそのように不を表出したのだろう。その犯人は他の遺跡にも火をつけた前科のある救できない人であったが、自分も南大門がそれほどすっかりけてしまうとは思っていなかったと民に謝罪の言葉を述べた。しいにもほどがある。彼の行は永遠に許されないだろう。 

ところで、最初警察では、屋根のもっとも重要な部分に火が付いて、それがあっという間にまったので、南大門の部構造をよく知っている人の犯罪かもしれないと表した。南大門に設置された4台の無人カメラには容疑者の姿も映っていなかったし、民は予測で一貫する査にうんざりであった。 

もっと科的に方法で分析し、査できないだろか。火事のにも南大門の構造を知っている消防署の職員は一人もいなく、とにかく屋根に水砲を射していたというので、そのましいことに溜息が出る。 

は2006年公開以南大門は、いつも危に露出されていた。しかし、それに疑問を提起する門家の真剣に耳を傾ける政府係者や担者はいなかった。南大門を管理する職員は中区庁からの3人。彼らは午後8時になると退勤し、火災の起りやすい夜には誰一人南大門の警戒に投入される人はいなかったという。 

事故はいつも油から起こる。異口同音に南大門の警備はあまりにもルズと言われてきたのに、なぜ注意をわなかったのだろう。無人カメラの大を要求した警備にも局は、予算不足を理由にそれを拒否したようだが、文化財を守りたいという精神がまったくない担者がその部署で勤めているという事に嘆かずにいられない。 

この頃はようやくを取りしたのか、国の言論と放送では日本の金閣寺再建を訓にし、南大門復に最善をくそうと呼びかけている。

ちょうど日本の言論、特に朝日新聞も社を出し、「そうした建物の修復や防災策に隣人として協力できることはないだろうか」と述べている。暖かい心遣いに感謝する。 

も京都の「文化財レスキュ体制」や奈良の文化財保安官が消防と協力するシステムを導入しなければならないと思う。 

私は西に留していた時、晴らしに京都や奈良に行って、日本の古い文化財を見るたびに、よく管理しているなと感嘆したことがある。何年か前には大阪城を綺麗に整備する作業を行なっていた現場を目し驚いた。 

そのことを思うと、念するどころか、文化財とソウルの中区庁、そして消防署が相手に責任を負わせる子にまたがっかりする。に情けないと思わざるをえない。今回の放火事件を反省し、策を講じなければならない時点にも拘わらず、いったい何を考えているのだろう。これで新羅、百、高句麗の文化を日本に播したといえるだろうか。 

文化遺跡一つ守れないくせに、相手に責任を嫁することに血眼になっているそれぞれの局を見て、民の憤怒は燃え立つに違いない。 

いまはどうすれば、文化財や史遺跡をよく守れるか、如何にすれば我らの史を破せず、そのまま子孫にるか苦し、力を合わせる時期ではないか。「韓にも考になるだろう」という朝日の指摘に耳を傾ける必要があるだろう。 

「隣の悲しみに思いを寄せ、史遺産の修復や保護に協力できれば、日韓の溝を埋めることにも役立つに違いない」と、心のこもった言葉もしているが、隣の意味を再度み締めたいものである 

かつて漱石は「模倣と立」で、「昔は支那の似ばかりしておったものが、今は西洋の似ばかりしているという有である。それは何故かというと、西洋の方は日本より少し先へ進んでいるから」と述べた。韓は文化保存においては日本の似をするべきであるだろう。 南大門を訪れてくださった外人の皆さんに申しない。

南大門は韓のものだけではなく、世界の遺跡であったのに、失してしまったのである。我は子孫に何と言っていいだろうか。言いはないだろう。 

ああ、南大門。ああ、南大門。

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今日は43回秋田県多喜二祭の日で、その行事が秋田市生涯習センタ講堂で行なわれた。『蟹工船』の翻者も加したと聞いているが、どのような話が交わされたのだろうか。 

私は今日、最近送られてきた「日通信 273 「帝主義と文― 韓で小林多喜二をむ」を再しながら多喜二について短いものを書いてみた。日本に信したいメッセのようなもので、どこかに載れば幸いである。 

日本より韓の2月はもっと寒いだろう。しかし、そろそろ花の季節だ。

日本の皆さん、お体にをつけ、よい季節をお迎えください。     

    発行者 金正 http://kjh.rakurakuhp.net/ 

「韓通信 第17 2008年1月18日」

韓日係の新しい時代

の大統領選者李明博氏の日本が窺える言葉が出た。李明博氏は、1月17日ソウルプレスセンタでの新年外信記者見の席上で、「日本が非常に形式的な謝罪をしたことは事で、そのために韓人に感動をえられなかった」と述べ、「成熟した韓日係を築くため、謝罪や反省という言葉を言わせたくない」という意思を表明した。

大阪生まれで、5までそこで育った人であるだけに日本には格別な思いを抱いているはずである。選者の兄もハンナラ党出身の国会副議長であり、今回特使として日本を訪れ、福田日本理に接見し、韓日係の新しい時代を開くことに合意したようだ。 

「韓日係で謝罪などの言葉を言わせたくない」と披瀝した李明博氏の見解にはその日本へのな思いがめられていると見てよい。ソウル外信記者クラブ主催の懇談で述べたものなので、未志向的な韓日係を念頭においての表現であっただろう。

そのうち韓日係はジグザグの行進を繰り返してきた。靖神社参拝科書歪曲、領土紛の問題など、両国は絶え間なく揉めけてきたのである。彼はそのような係を逆させ、韓米係と韓日係を同時に回復し、新政の登場とともに自分の治績を一つ一つ作り上げて行こうとしている。

しかし、考えてみよう。まず、李選者はノムヒョン政府の経験を繰り返したくないと言うが、そのように化した韓日係の原因がノムヒョン政と何の係があるだろうか。決してノムヒョン政に味方するつもりではない。民生の破綻をたしたと言われ、民の支持を受けることに失敗した結果を知らない民はいないからだ。

そういえば、ノムヒョン政も最初は日本との係を調した。島根県から島問題が話題に出て、それに反する過程で韓日間の摩擦が起り、また小泉から安部に受けがれた、一貫する日本の右傾化政策が両国間に不な雰囲気し出したのではないだろうか。ひたすら化の原因を前政の政策に探し、それをしく追及することによって、係回復をる考え方は見直されなければならない。そのように言うなら、時の野党ハンナラ党にも一部分の責任があるに違いない。

は、アメリカのブッシュ共和党や小泉安部自民党とコドが合わないといえ、前向きの視線で韓日係に臨もうとしたノ政の意志はどの政にも劣らないものであった。しかし、思う通りには行かず彼の在任中に昔から潜伏していた韓日の懸案が次と爆したのである。って、政の問題ではなく、なぜ韓日係がそれほど化したのかという原因を分析し、誤りを反復せずその化の可能性を遮することこそ係回復の近道ではなかろうか。

そして、日本との係を改善しようと訴えるだけで、全てが解決されるかという点も取り上げなければならない。過去の問題を念頭におかず全く無視しようとする考え方は一見尤もらしく見えるかもしれない。しかし、眼を瞑って過去の史を全く意識しないことが万事順調であろうか。それは韓日間に生じる異見に沈し、その現から回避しようとする姿勢としてもめなくもない。

却って問題が生じるときは、お互いに打ち明けて積極的に過去の史に立ち向かう必要があるのではないか。過去を暴きだそうと言うのではない。過去を現在の訓として正しく認識するという雰囲気を通じて、韓日間に起りうるだろうと思われる問題に対処したいものである。たとえば韓日間の間隙を<史認識>の視点から分析している高橋哲哉氏は『<史認識>論』(作品社、2002年)の中で次のように述べている。    

今日の<史認識>論のなかで台風の目になっている、いわゆる史修正主義、つまり一九四五年八月一五日までの日本の外侵略政策と植民地支配の責任を否定する動きは、すでに八年代において今日につながる形で存在していた。現在の「科書問題」と「靖国参拝問題」も、きわめて類似した形ですでに起っていたのである。(「今日の<史認識>論をめぐる況と論点」)

尤もな指摘であろう。いわば韓日間の問題は、ノムヒョン時代の以前から生しているのであり、これからも日本の「史修正主義」下にはいつ起るか分らない潜在的な問題かもしれない。安部政の「美しい」を作るという言葉が出たとき韓から如何にしい批判がいたか想起するまでもない。純にノムヒョン政のときに韓日係が化したと見るならば、その史認識の欠如に多くの人から叱責を受けるはずである。

勿論李明博氏の新年記者見での言葉は、韓日係の未を展望するのに肯定的視点から評されるところもある。選者として韓日係の新しい時代を開こうとする意欲は漲っているには間違いはない。しかし、韓日係においてはその意欲だけで解決されない根本的な問題もあるのだ。その問題を考えるのに安逸なところはないだろうか。これから誕生する新政の韓日係にする哲史的思考の貧困の可能性を警戒せずにはいれれない。

日本人拉致問題についても「日本人拉致問題の解決のため北朝鮮を得する考えか」と聞かれ、「韓にもそれより多の拉北者(北に拉致されている人―筆者注)がいる。これから北朝鮮との話を通じて順調に解いていけるだろう」というような原論的な立場を示している。が、新保守政の登場であるだけに、北朝鮮との話がうまくいくかどうか予測がつかない。昨日表された政府組織の改編安には「統一部止」という衝的な容も入っているからだ。

はたして李明博政府の韓日係は順調だろうか。しかし、選者の日本への格別な思いが日本に感動をえ、融和と和解の韓日係を築き上げるかもしれない。それにアジア外交を重視する福田政に出ったのは幸運である。

2008年の輝かしい光は韓日の所を照らし出している。両国が過去の史をさず率直に認め合い、それを訓にしながら手を携え、新しい韓日係の新しい時代を開いていくことを心から願うものである。

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最近送られてきた 「日通信 第272号」には、「安倍前首相の「美しい」とか「愛心」とかが空(略)日本は平和家であることに自信を持ち、アメリカの戦争政策と毅然としてたたかいつづけるところに立の道を探るべき」と書いてあるが、共感である。

今年は小林多喜二生誕105年で、日本の各地で多喜二についてのな行事が行なわれるそうだ。

多喜二の生誕地秋田県でも、2月16()に「第43回秋田県多喜二祭」が、17()に「第29回大館市小林多喜二記念の集い」が開催されるらしい。

また2月20日()には、北海道小樽で「多喜二墓前祭」と「多喜二記念講演と音の夕べ」、2月26日(